青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

家事が承認欲求を満たすためのものだった頃のこと。

実は久しぶりの里帰りでした。

LINEで定期的に会話はするけれども対面は年単位での久しぶりで、最寄り駅に迎えに来てくれた母の顔は、記憶にあったのよりしわが増え、ほっそりとしてました。それは夜帰ってきた父も一緒で、記憶よりずっと小さく見えた。

そのとき思い知らされた気がしました、「親孝行できる時間は思うより長くないかもしれない」と。

気づけば何となくじっとしていられなくなって、現役の共働きで年始年末も日勤が入ってた両親に代わって料理したり掃除したり細々雑務を片づけたり。実は自分よりまめに里帰りしてた兄弟は「年末なのによく働くなぁ」と思ってたそうなんですが、確かにばたばた動いた正月でした。

小さな子持ちのご家庭に気を使って、年末も仕事帰りが8時を過ぎた母。温め直したうどんを食べながら、「あなたは子供の頃もよく家事やってくれたじゃない?あれ、本当に嬉しかったのよ」と懐かしそうに言われ、「そうだったなぁ。そんなこともあったな」と感慨深くなったのです。

 

中学から高校にかけて、文化系の部活で帰りが早い自分は家事を手伝うことが多かった気がします。

共働きで帰りが遅い両親と、体育会系の部活でお腹を空かせて帰ってくる兄弟に代わり、夕飯を作ったり洗い物をしたり。最初のきっかけはもう思い出せないんですが、褒められるのが嬉しかったんですよね。父においしいと言われたグラタンを3日連続で作ったこともありました。

という話を友達にすると「料理できるってすごいね!でも親が共働きだと大変だね」と言われ、でも、たいして苦にはならなかったのです。本当のところ。

だって、子供ができるレベルの家事って、努力や才能がなくても「時間を消費」すれば一通りこなすことが可能だと思うんです。少なくとも「忙しい両親を健気に手伝う私」は、「成績優秀で先生の信頼も厚い私」「運動神経が抜群で、大会で実績を残してる私」「何かの才能に溢れ、コンクール入賞経験のある私」なんかよりも簡単に演出できる。

学校の人間関係がうまく行かなかったり、成績が落ち込んだ時ほど丁寧に家事を手伝って、褒められたがった気がします。

 

振り返ると可愛げないな、と思うんですが、多分「ご飯も洗濯もする私偉いでしょ?褒めて褒めて」感を全方位に出してました。

兄弟が「やってもらって当たり前」という態度を取ると、1週間くらい兄弟の嫌いなものを夕飯に出し続けたり。「お手伝い頑張るから家族旅行は大阪が良いなー」と両親にわがまま言ったり。今で言うなんちゃってイクメンぽい感じですね。あくまで家事は「手伝うもの」で、「自分の仕事じゃない、だけどやってあげてる」のスタンスを意識・無意識に取ってたので、家族も何となくは察してたろうなー。

一度苦言を呈したのは父で「やってあげてると言う気持ちは態度に出るから気をつけた方がいい」と言われた記憶が。でも他に余裕のある人がいない環境下、全般的には甘やかされたのが大半です。

そんなわけで子供の頃、家事は承認欲求を満たすためのものでした、自分の場合。見合う利益のある行為だったのです。

 

という過去を振り返り、なんちゃって親孝行のつもりで久々家事をしてた今回の年始年末。

自分の中で、やってあげる感は全くなかったのです。仕事して疲れてるならうどんか雑炊かなーと軽めのものを作ったり、体力的につらいだろう倉庫の掃除をやったり。その横ではテレビを見て笑う兄弟がいたわけですが、特に優越感も、なにもしない兄弟へのいらつきも起こることはなく。

多分両親からすれば、子供の頃の延長で手伝ってる的に感じたと思うし、やってること自体も大して変わらないのですが、でも、自分では全く意味が違った。ありがとうと言われなくても気にならない。承認される必要を感じない(でもここで言葉を惜しまず嬉しそうにしてくれるのがうちの両親のすごいところ。)

「してあげる」が「したい」に代わったというか、何かの利益である必要がなくなったというか、結果が必要なくなったというか、そんな感じです。でもそれに気づくのも、なんだか寂しい気がするのですけれど。

 

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