青猫文具箱

青猫の好きなもの、行った場所、考えた事の記録。

何度目かの大塚国際美術館で思うこと。

ちょっと前のことですが、今年も行ったんです、大塚国際美術館。徳島県鳴門市、日本最大級の常設展示スペースを持つ「陶板名画」の美術館です。

大塚国際美術館|徳島県鳴門市にある陶板名画美術館

ここはレプリカ(複製画)しかない美術館で、古代から現代までの世界中の名画が、陶器の大きな板に、忠実な色彩、大きさで再現されています。忠実といっても陶板に転写したものを焼成するため、オリジナルの持つ繊細なタッチや色合いまでは完璧に再現できないわけですが。

権料が発生する分、入館料が日本一高いともいわれ、徳島中心部からのアクセスも微妙に不便なことから、館内に足を踏み入れるまでのハードルが高い美術館のひとつです。

それでも大塚国際美術館が好きで、年1回のペースで東京から徳島まで足を運んでます。

友達とガイドツアーに参加したり、ひとりで自由気ままに館内を巡ったり。鑑賞の楽しみ方はその時々で違いますが、何度来ても「もうこれで充分かな」にならない場所。ありていにいえばすごく好き。自分は美術に対する造詣はないけど、でもここは素敵な場所だと思う。

東京在住で、世界中からやってくる名画の企画展にはそれこそ事欠かないのに、日常のふとしたタイミングで「そろそろ大塚国際美術館行きたいな」て思うんです。旅の目的地にできる美術館ていうのかな。ここを見たいがためだけに徳島行っちゃう。

 

まず、何より、「絵画との遭遇の仕方」が素敵だと思うんですよ。入館すると目の前は長く続くエスカレーターで、上ってようやく美術館のエントランスに辿りつくんですが、そこにパッと目が引き寄せられるホールがあるんですね。

システィーナ・ホールという、ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂を模した場所なんですが、扉からはホールの祭壇に描かれたミケランジェロの「最後の審判」が部分的に見えて、めっちゃ高まる。

で、吸い寄せられるようにシスティーナ・ホールに入る。すると、それまで祭壇の最後の審判しか目に入ってなかったのが、頭上の天井画に気が付くんです。

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写真撮った人の腕が大したことないんでその感激の1/100も表せないんですが、もう、ただただ大口開けて見入っちゃう。もちろん本物ではないけれど、その壮大さと静謐さみたいなのに心打たれる。この本物がヴァチカンにあるのか、とまだ見ぬ異国に思いはせたくなる。

「こちらもミケランジェロの作品で、33歳から4年がかりでほぼ一人で制作した~」とかガイドさんの声が聞こえて、そうか33歳でこれを任される人がいるのね、と背筋が伸びる思いにもなります。

絵画との遭遇の仕方、他にも例えばB2Fにはモネの大睡蓮が屋外に置かれてるんですが、この道を通って、

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モネの大睡蓮に辿りつく。なんというかもう「うわぁ…!」しかいえなくなります。

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睡蓮の美しい季節で、しかも頭上に青空が広がっていたら「そりゃモネも睡蓮愛しちゃうよね!」と納得せざるを得ない。いやせっかくの睡蓮だし、雨にしとしと濡れてても良いかもしれない。雨にけぶった睡蓮の絵とか、それ、素晴らしく自分がイメージするモネの睡蓮です。

あと、ゴヤの家で「黒い絵」の連作を見た後、展示室を出ようとすると目に入るゴヤ最晩年の傑作「ボルドーのミルク売りの少女」もいい。初めて気がついた時は「うぎゃー!」となりました。黒い絵の後にこれが来るんだ!みたいな。愛しさこみ上げる。

そんな風に絵画とのファーストコンタクトでガツンとやられるんです、この美術館。絵画のレイアウトとか編集としての妙、かな。絵画との遭遇の仕方に仕掛けがあって、それがとても好き。

 

大塚国際美術館の好きなところ2つ目。「絵画との距離」を楽しめるのが良い。

絵画鑑賞には適正距離がある、を知ったのは最近なんですが、見る距離によって絵画って変わるんですね。点描画で描かれたスーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」のように、近くと遠くそれぞれで見ないと、すごさを体感できない作品ってある。

破損や劣化のリスクがあるから、オリジナルなら一定の距離を置いての鑑賞しかできないと思います。作品の周囲に赤い紐が張ってあって「これ以上は近づかないでください」になっている。でも、陶板名画なら間近で見ることができるわけですよ。

例えばハンス・ホバインの「大使たち」。美術の資料集にも載っている有名なこの絵画は、画面中央にだまし絵的な技法で頭蓋骨が描かれてます。「メメント・モリ(死を想え)」を暗示するその頭蓋骨は、でも、普通に正面から見ただけではわからない。絵画に近寄って、額の傍から画面中央下を見る。するとふわりと頭蓋骨が浮かび上がります。それは触れるほどの近い距離だから見える風景なわけで。この角度で絵画を見れるこの場所は素敵だな、と思う。

それから絵画との距離感でいえば、ベラスケスの「ラス・メニーナス」。

フェリペ4世の王女マルガリータやその侍女、宮仕えの人々を描いた絵画の、オリジナルを自分は見たことがなくて、だからレプリカでしか知らないんですけれど、この絵は至近距離で見ると、筆のタッチが至極雑なんですよ。でもそのみみずののたくったような筆遣いが、一定距離まで離れると急に、美しく精緻な光の加減を表わす描写として浮かび上がってくるんです。

初めてそれを知った時、ちょっと鳥肌が立ったんですよね。そして本物を、同じように至近距離から、そして遠くから見たいなぁと思った。もちろん無理なんですが。だからこそ大塚国際美術館たのしい。

特にプッシュされていない絵画も、あえて高い位置に額を設置していたり(イワン・クラムスコイの「見知らぬ女」とか、あの見下ろす配置とても好き)、距離をつめるごと印象の変わる絵画があったり(フラ・アンジェリコの「受胎告知」の遠近法感とか)、来るたびごと距離ごとに新しく気がつくものがある場所です。

大塚国際美術館の好きなところ最後。これは前にも書いたことがあるんですが「作品の有名感が飽和している」こと。有名作が並びすぎて、一作一作の特別感がなくなっている。パワーインフレみたいな感じです。
人並みにミーハーなので、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」といわれれば「なるほどこれが有名な。光の繊細な表現が美しい...」とかテンプレな感想抱いちゃうし、ミレイの「オフィーリア」が飾られてると知れば、その前に配置された絵画や解説をスルーしてそこに突撃したくなる。普通の美術館なら。

でもここは陶板名画の美術館で、飾られている絵画はどれも有名絵画ばかりで、だから自分の中のミーハー心というか「有名だから好き」感が薄れるんですよちゃんと。するとじゃあ自分が好きなのは何?がごく自然に考えられる気がする。

ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は、綺麗だとは思うけれど、有名絵画の一連としてみれば自分にとって重要ではないと感じるし(大塚国際美術館では、モナ・リザの配置がやたらの特別感がなくてそれもいい)、逆に、ゲインズバラの「犬と水差しを持つ少女」とリッカルド・ベリの「北欧の夏の宵」が自分はとても好きみたいで、なぜかいつも、あのふたつの絵の前で長時間佇んでしまう。

大どんでん返しのミステリ小説読むと、記憶をリセットして最初から楽しみ直したい、カタルシス味わいたい、て思うことあるんですけれど、絵画に対しても近いことを思います。日本人はみんな好きといわれるルノワールの絵を、前知識なしの初見でも、本当に好きになるんだろうか?絵画に対する知識をリセットして、それでもなお自分の心に残る絵ってどれなんじゃろ?と。それがほんのり叶う場所だと思うんです。

 

大塚国際美術館初代館長の言葉で、

それは、一握りの砂から始まった。|大塚国際美術館の特徴|大塚国際美術館 - 四国 ・

なにしろ、この絵は陶器ですから全然変化しません。本物の絵は次第に変化しますから、実物の色と、陶板名画の色とでは今から50年、100年経っていきますと、色や姿がおのずと違ってくると思います。しかし、どうしても真実の姿を永遠に伝えたい、後世への遺産として保存していきたい、ということで陶板名画美術館設立に至ったわけでございます。

これ素敵だなと。大塚国際美術館には、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」も飾られていて、しかも、修復前のものと修復後のものが向かい合って飾られてるんですね。あれ見るたびに、この美術館の凄さというか意義みたいなものを勝手に感じちゃうんですが、後世に残すという意気込みみたいなものがあの場所にはあるんだなと思う。そして自分は恩恵にあずかっている。

正直、美術知識何もない自分が、絵画に興味を持つようになったのは大塚国際美術館のおかげだと思います。それぞれの絵画について、現地までオリジナルを見に行きたいと思うほどの熱量持つのってハードル高いですし。

書きながら思ったんですが、そろそろまた行きたい。大塚国際美術館。