読みました。『すべてがFになる』などを書いている森博嗣先生の「The Cream of the Notes三部作」から一冊目『つぶやきのクリーム』。
つぶやきのクリーム The cream of the notes (講談社文庫)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/12/03
- メディア: Kindle版
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作者の「つぶやき」に補足的文章を後から付け加えた構成で「大部分の失敗は、やらなければならない失敗だった。」みたいな短い言葉にその解説をつけてます。本人も述べてるように、つぶやきの抽象性に対して補足は蛇足なものも多い。
それで。このつぶやきを呼び水に、つらつらと思考の海を漂ってます。お題が与えられてそこから思考するのってとても素敵な遊戯だと思っていて、しかも一応解説らしきものも付いてくるんですよ。これがつまらないわけがない。
例えばここら辺本文から引用してみるんですが、
偉い人の話を聞いて、それをそのままブログに引用しても、これっぽっちも偉さには近づけない。
これ、思っていて。
読書ブログの風上にも置けないんですが、最近、本の内容をまとめて「こう面白かったんです」と読書感想を書くことについて上手く呼吸ができてなかったりします。
なんというかこう、本を読んで、読書ノートにまとめて、そこで終わってしまう。どう結びつけるか、実際どうなったか、にちゃんと結びついていない。
ブログに感想書けばアウトプット、というのも手を抜きすぎだと思うし。自分、誰かに本を買わせるための「商材Kindle」的書評や読書感想にならないように、て思って書くのですけれど、最近特に空回りしてる気がして、まさに「偉さには近づけない」。
多分今の自分のモードでいうと、ネットで周辺情報調べて書評っぽく書く方が簡単かもしれません。客観て難しくもあるんですが当事者じゃない分気楽さもどこかあって、情報さえ出揃えば後は並び替えみたいなところもありますし。ちょっとした「仕事」をした気になれる。
冒頭の本、引用続けるんですが、
(前略)でもこれは、あまり役には立たない。というのも、その言葉そのものをいくらコピィしても自分で活用できないからだ。これは、美しいな、凄いなと感動したものをスケッチするような行為である。感動をそうやって反芻したい気持ちはわかるけれど、そうではなく、その言葉から自分の人生に展開し、どうすれば良いか、どんな風に利用できるかと思考し、そしてその結果に基づいて行動することが必要だ。(後略)
あぁ痛いな、と思って。感動して体験した気になって、借り物の虎の威で何かできるような気になる。今まさにそんな感じで。自覚しているからなおさら辛い。
ブログで言葉を引用して何かを書いて、それはまるで自分が虎の威を借りて偉くなったつもりで書いちゃえるんですけれど、当然、自分が偉いわけじゃないんですよ。記事を書くというその部分で仕事をした気持ちになってしまうけれど、別にそれは「私じゃなくても良かった」。
前こんな記事書いて、
結局のところ、オリジナルの存在がなければ自分のカメラは成立してなくて、例えそこに編集的な創作性があったとしても、出来のいい二次創作ぐらいにしかならないと思うんです。 自分のカメラは何も作り出してはいなくて、誰かが作り出したものを拝借する行為でしかない。無から有を生み出さない。 カメラを趣味にしている人や仕事にしている人を凄いと思うのは、その壁を乗り越えて創作性を発揮できるからです。
私のカメラは二次創作にしかならない。
ここではカメラを例えに持ってきましたけれど、本でもブログでも、オリジナルの存在がなければ成立しない物ばかり再創作した気になるの、息が苦しいなぁと。
理想としては、本の感想なのに本から引っ張ってきた部分を丸っと削除しても面白い文章が書ければ僥倖、なのかな。そしてこれって何も、ブログじゃなくても自分が発する言葉全体に言えることかもしれない。借り物じゃなくて自分の物で勝負する的な。
えぇと、でもこうして何か「書きたくなっちゃう」くらいには示唆に富んでいるエッセイで、自己啓発的に前向きに背中を押してはくれないんですが、思考の海には溺れさせてくれる、そんな『つぶやきのクリーム』です。
面白かった。読み切って残りの二冊購入してしまった。
そしてこうして本書から引用してこの記事を書いた自分は、はてさて偉い人の虎の威を借りたかったんでしょうか。どうなんだろう。ちゃんと呼び水止まりになっているんだろうか。