青猫文具箱

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才能がない、という悪魔の証明。

自分には才能が「ない」?

自分がブログを始める前に休止してしまったブログで、当時とても好きだったブログのことをふと思い出して、読み返したら止まらなかったのです。やっぱり読ませる文章だなー、天賦の才ってあるなーと。そして、落ち込んでいました。比べて自分、文章の才能ないな、と。

雰囲気で文章が整っていればそれで十分かな、という思いもあるのですが、やっぱり素敵な文章を見ると嫉妬する。じゃなかった羨望する。嫉妬するのって自分が持っている(と思っている)ものを奪われる恐れのことでした間違った。

例えば鳥が空を飛ぶように、わかりやすく「自分にはできない」と納得して割り切れればいいのだけれど、文章って書くだけなら誰でもできるじゃないですか。だから「できそうなのにできない」ことに落ち込む。

でも同時に思ったのですけれど、自分には才能が「ない」ってどうやって証明するのでしょうね?というか、その才能が「ない」て、どの才能が「ない」のでしょうか。

 

全てがないのか、部分的にあるのか。

こういう話題だとつい演劇で話してしまうのですが、オーラや華のある役者さんというのは存在していて、ただ、オーラがある=演技の才能がある、ではないと思うのです。

だって、みんながみんな主役級のオーラを放つ舞台って面白いと思います?胃がもたれますよね。脇役がいて悪役がいて物語を引っ掻き回すトリックスターがいて初めて主役が引き立つわけで、むしろシナリオ上見せ場が用意されている主役より、シナリオの行間を読んで演じる脇役の方が役処としては難しいことも多い。

だから、主役的な才能もあれば、「天才的に悪役が上手い」「過不足なく脇役を演じられる」という才能もあるわけです。才能にはいろいろな形がある。そしてこれは演劇に限った話じゃない。例えば野球だと守備の才能、投球の才能…など様々。事情は他でも同じだと思います。

何が言いたいのかというと、自分には才能が「ない」ことを確認するには、色々ある才能の形それぞれについて「ない」ことを検証する必要があるのじゃないかしら、と。

 

「ある」かもしれない才能の「ない」ことの証明。

そうは言っても、どこまでやったら「ない」と確認できるかって謎な気がしません?

才能が「ある」ことの証明はできると思うのです。つまり、続ければいい。どんな形であれ続けられるのであれば、それって要は才能が「ある」てことで、迷う必要はないと思うのですよねー。

継続という稀有な才能。 - 青猫文具箱

要はプロというのは、「選ばれる」というより「残る」ものなのじゃないかしら、と。割と世の中には天才と呼ばれる人は溢れていて、でもプロとして残るのはほんの一握り、その分野での才能と「継続という稀有な才能」を持ち合わせる人、みたいな。それは運に依るのかもしれないし、絶対諦めないという執着に依るのかもしれない。

ではその逆は?才能が「ない」ことの証明は?これって多分悪魔の証明です。才能が「ない」ことを虱潰しに証明するには、人生は時間が足りなさすぎるのに。

もし10年間同じことをやり続けたとして、欠片も芽が出ないなんてあり得るのでしょうか。

例えば自分の場合、裏方の期間が長いといえど演劇歴は古くて、才能があると思っていない演技もそれなりにできるのです。プロンプや代役をやれば「やっぱり経験者は違うね」と言われる。いろんな舞台を見てきた経験と、役者と一緒にやる発声練習・柔軟体操の賜物です。自分に熱意がなくてぴったりはまる才能の形が見つけられていないだけで、もしかしたら自分も、演技の才能が「ある」かもしれない。 

演劇入門 (講談社現代新書)

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悪魔の証明は諦めるしかない。

すごーく不幸なことだと思いませんか。才能が「ない」ことの証明ができないのって。

その道の権威と言われる人から、始めて3か月目に「お前才能ないよ」と言われて諦めた方が、その瞬間恨むけれど、長い目で見れば感謝しません?才能のないことに費やす、無駄な時間がかからないのだから。

でもそんなことって稀で、普通は「自分で」諦めるしかないのですよね。自分はもうこれを続けはしない、と時間を費やしてきたものを捨てる。自己責任、はちょっと荷が重すぎるから、だいたいは「才能がないから」「熱意がなくなったから」そんな風に他責で、自分ではない誰か/何かのせいにして。…本当は「ない」ことなんて、誰にも証明できないのにね。

 

続けるその先に見えるもの。

それを踏まえて考えるのですけれど、才能が「ない」かもしれない自分は、ブログを続け、文章を書いていくか?

ひとまずはイエス。でもこれからも素敵な文章を見たらそのたび羨望する。羨望して落ち込んで、立ち直れても多分、また羨望する。繰り返す気がする。

けれど繰り返し続けたその先で、「才能あるなしとか関係なく、どうしても書きたいことがあるんだ」みたいな世界が開けちゃったりしたら幸せだと思うのだけれど、違うのかしら。どうなのだろう。

 

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