二日前の記事で「幕が上がる」の小説を読んで書いた、
プロへの道って「その分野でのなんらか特化した才能」の他に「継続という才能」が必要だ、というのがその頃から抱いてる持論です。
要はプロというのは、「選ばれる」というより「残る」ものなのじゃないかしら、と。
で、記事を引用させていただいた長田さんから直接、出張アドバイス頂いてしまいました!長田さん助言ありがとうございます。嬉しいです。
嬉しいだけで終わると時間を割いていただいたのにもったいないので、血肉にするため長田さんの記事を読み返して考えました。
最初思ったのが、自分は「プロになる」と「プロである(プロで居続ける)」を整理しないまま「継続という才能が必要である」という記事を書いてた、という点です。
「演劇の才能があると思っていたのに辞めざるを得なかった先輩には継続の才能がなかった」と前の記事で自分は書いたけれど、これは「プロである」ことの難しさな気がします。
そして上記の記事で長田さんの書かれている、
夢をあきらめるとか、継続させるとか、そんなことは考える必要すらない。
今このときに何を自分はやっていて、それに対して一生懸命働けて、なおも自分をもっと成長させているかどうか。
今をもっと楽しくなるようにするには、どうがんばったらよいのか。
は「プロになる」ために必要な心構えではないかしら、と(間違ってたらすみません)。
そこから転じて、自分の中で「プロ」の定義をごっちゃにして書いたことにも気がつきました。
「プロ」を「アマチュア(その分野で職業として生計を立てていない人)の対義語」か「素人(その分野の専門知識を持たない人)の対義語」と考えるかで、「プロになる/である」の起点、要は「プロ」の入り口が変わってきますよね。
例えば自分は学生演劇をしていた頃、観客のいる場で照明オペレーターをする時プロ意識(素人の対義語)を持ってやっていたけれど、プロ(アマチュアの対義語)になろうとは思わなかった。
んー。どっちの「プロ」であっても継続する才能は必要になると思いますが、自称でも可能なプロ(素人の対義語)よりも、生計が立てられるだけの収入があるプロ(アマチュアの対義語)の方が難易度高いのは確実です。それこそ継続する才能の中でも、自分ではどうにもならない周囲の環境や運の要素が強くなっていくのだと思います。
ここにきてようやく「そもそも」に思い至ったのですが、私は継続するということを「才能」つまり、Gifted(先天的に平均よりも顕著に高い能力を持っている人)として捉えていたんだなぁということです。後天的に努力で手に入れられるものではなくて、誰かから与えられるもの。
Giftedと捉えた理由はやはり、自分が(ここでは演劇を)あきらめた側だからで、無意識でも「それは自分でどうにかできる領域ではなくて、自分ではどうのしようもない領域である」と思いたいからこその表現かもしれません。
心のししょーよつば様(@f4leafclover7)から頂いたコメントで、
プロって呼ばれる状態までいくにはその分野に必要とされるセンスとそれを活かせる環境、その上にここで取り上げられた継続できる才能が合わさってのことだと思う。どれが欠けても突き抜けにくい。
「それを活かせる環境」、これも自分は「継続という才能」の一部だと考えていたのですが、それは環境も自分でどうにもできないGiftedな領域と言えるから、なのじゃないかなーという自己分析。
でも違う訳です。継続は不可抗力なGiftedな領域ではなくて、もっと自分でどうにかできる領域の話です。
今まで書いてきた「継続という才能」には、Giftedな領域だけでなく、もっと広い、自分の裁量でどうにかできる、要は「継続しようとする意志」的なモノも含まれるべきだよなと。実際自分が学生で演劇を辞めたのも、
専門の学校に通ったわけではないし、自分の才能の限界...というよりずっとやっていける熱量的な自信がなくて、卒業して演劇自体辞めてしまいましたが。
才能というよりはそれをずっとやっていける熱量的な自信、つまりは「継続しようとする意志」がなかったからです。長田さんの
夢をあきらめるとか、継続させるとか、そんなことは考える必要すらない。
はもっと真っ直ぐでだから続くのだと感じます。
なので、結論としては長田さんと同じ「今を楽しく生きよう!」です。そしてもうどうしようもないな、もういいかな、とあきらめたくなった時は、この「継続しようとする意志」の話とか「プロとは残るものである」ということを思い出せたら幸せなんじゃないかしら、と。諦める前のもうひと頑張り。
ちなみに、自分の場合「演劇」はあきらめた選択肢ですが、その分他の選択肢が手に取れたわけで大きな後悔があるわけではないです。長い年月選択肢として選び続けてきたものを選択肢としないのも、同じくらい尊いと思ってます。
ここで思い出したのである小説の一節を引用します。
wonder wonderful 上・1 (レガロシリーズ)
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主人公はいつだってなにか使命を背負っていて、次々と襲ってくる困難にも負けず、いつしか心を許しあう頼もしい仲間たちと笑ったり怒ったり傷ついたりしながら成長して、最後にはその使命を全うするのだ。
……冗談じゃない。
そんなものは、十代の柔らかな心だけが吸収し、耐えることのできるシナリオだ。
私にそんな元気な真似はできないし、胸打つ心の成長にだって限度がある。と言うより、ここで私の心が大いに成長を遂げてしまったら、かえって悲しい。今までなにやって来たんだってことになる。
そう。いろんな人と出会い、いろんな経験を積んでいる自分がGiftedなもの(才能、環境)で変わってしまうのは「かえって悲しい」のが良い。今まで何やってきたんだと思いたくない。
ひっくり返されたら激怒するような何か、執着をちゃんと持っていたい。
長田さん(そしてよつばししょー他ブコメなどくださった皆様)ありがとうございます!という記事です。