文具店で「蔵書票」を購入しました。
蔵書票は、本の見返し部分に貼って本の持ち主を明らかにするためのもの。持ち主の名と一緒に美しい絵や図柄が描かれていて、その高い芸術性から小版画として蔵書票自体をコレクションする人も多いといいます。
国際的にはエクスリブリス(ex libris)、英語だとbookplate。日本では明治時代に西洋の影響を受けて愛好されるようなりました。
自分の場合、竹下夢二の作品にはまった時に存在を知って調べたことはあるものの、正直今も普通に売られているとは思わず、興味本位で購入。なんとなく蔵書票って、切手のように「収集するもの」で、道具として「使うもの」のイメージがなかったので、文具店で見つけた時は和菓子屋にべっこう櫛が置いてある的な違和感があったくらい。
古本屋や図書館、そして電子書籍が普及している世の中で「本を自分のものにする」てすごい覚悟だと思いません?
売らずに手元に残すと決めるのです。そう覚悟するぐらいだから、ちょっとしたハウツー本やそのうち飽きるだろうコミック、流行に流されて買った小説ではないですよね。古本屋に売るとか、ごみの日に束ねて捨てることができる本ではないと思います。多分、引越しだったりをきっかけに処分できてしまえる本ではない。
思い入れがいると思うのです。座右の書とか、人生の岐路で影響を受けた伝記とか、どん底で励まされた小説とか。それだけ大事な本でもないと「自分の本」という所有印は残しづらい。
だって、いつか本棚を遺品として整理するとき、蔵書票が貼られた本を見つけたら売れないし捨てづらいと思いません?日記帳のように処理に困るだろうなと。
そして同時に、あぁこれはあの人にとって大事な本だったのか、と思わずにいられない気がします。
実際、自分がそうだったのです。恩師の遺品整理をお手伝いした際、形見分けでいただいた本を未だに読み返しては思っています。なんでこの簡単な本を先生は大事にとっておいたのかなーとか、変なページの開き癖に意味はあるのかなーとか。すでにその理由は知る由もありませんが。
手元に残した本や、その集合体としての本棚って、言葉より雄弁にその人を表している気がします。しかも、過去の積み重ねとしてのその人というよりは、なりたかった理想の積み重ねとしてのその人、的なやつ。
ちなみに電子書籍派の自分の場合、リアル本棚に残っている本って、学生時代から捨てられずここまで来てしまった本ばかりです。絶版も多くなってしまったし、替えのきかないもの。まぁ、それだけの時間を経ているので、今更蔵書票を貼って自分のものと確認する必要はないわけです。すでに自分の一部になってる本だから。
そんなわけで、この蔵書票をどう使おうか、徒然なるままに考えています。
古い本はちょっと違うし、むしろ本とともに蔵書票も時間を経て色褪せる感じの方が素敵だと思うし、でも新しい本で「自分のものにしたい」という覚悟を持てる本てなかなかないし、だからと言ってコレクションにするのも違うと思うし。せっかくだから芸術品ではなく、もっと身近な道具として使いたいなーとか。
むしろ背伸びして、いつか自分に馴染んで欲しいなーと思う本に貼っちゃうとか。なかなか思いつきませんが。
と、ここまで考えて。電子書籍ってどうなんだろうと。
自分の場合、普段の読書は電子書籍がメインなので、自分が主張しなければどれが思い入れのある本か、わからないと思います。開き癖もつかなければ手垢もつかないし「手元に残すと決めた本」なのか「購入履歴として残った本」なのかすら区別する術がないですし。
…だから電子書籍って一定以上流行らないのかしら。