読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

美術館での絵の楽しみ方に、悩む。

美術的な素養を鍛えてこなかった人間で、でも、きれいな絵や雰囲気のある絵は好きなので、美術館には時々行くんです。癒されるし、非日常感に浸りたいのもある。気が向いて時間も空いていれば「美術館に行く」が休日の選択肢に入ってきます。

 

イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレーの作品「オフィーリア」を3つの場所で見たことがありまして。最初がロンドン、次が東京、最後が徳島。徳島で見たのは大塚国際美術館の名画陶板画なので、オリジナルじゃなくてレプリカ(複製画)です。

オフィーリアは好きな絵のひとつなんですが「この絵いいな」と思ったのは大塚国際美術館でだったんですよ。ロンドンでは見たことは覚えているけれど印象は薄くて、東京ではあまりの混雑ぶりに視線を流す程度でした。大塚国際美術館の静かなギャラリーで、ガイドの説明を聞きながら見たとき初めて「この絵いいな」と思ったんです。オリジナルじゃなくてレプリカですけどね。

 

オフィーリアをいいなと思って、でもそれはレプリカで、だから自分は絵の何が好きなんだろうって考えるんです。テーマなのか色合いなのか筆のタッチなのか構成なのか、はたまたそれらの総合として好きだと感じたのか。

例えばルノワールマリー・ローランサンの作品なら、好きの理由がわかりやすいと思うんです。淡い色合いと柔らかなタッチで描かれた女性たちは、直感的に「かわいい」と感じる。ときめく。

でも、ミレーの描いたオフィーリアの好きの理由は迷います。画面全体から漂う不吉さ、緻密に描写したゆえに雑然として見える草花、虚ろな少女の表情...どれもかわいいとは違う良さがある。けれどうまく言語化できない。具体的にどういう理由で好きなのか、自分の美術的な知識では表現できないんですよね。

それに、きっかけはレプリカなわけです。ロンドンと東京で見たオリジナルじゃない。というか、そもそもオリジナルと精巧なレプリカの違い、本物である必要性って何なんでしょう。贋作は言語道断ですが、許可を得て原寸大で転写し、細かなレタッチ(手作業での修正)が加えられたレプリカの場合、どこまで本物にこだわる必要があるのかなと。

作り手(そしてそれを保管する人々)にとってオリジナルであるという価値は大切です。でも、鑑賞する側にはどういう意味があるんですかね。実際自分は、本物だけにある「オーラ的何か」(適当)に心惹かれるわけじゃないですし。美術的な素養や勘に優れていれば、本物でなければならない必要性みたいなものがあるんだろうか?

 

そんなことをつらつら考えて美術館を巡る日々の中、シュー・ヤマモトのCAT ART美術館に行きました。誰もが知る世界の名画を「キャットアート」にした巡回展。人間の仕草を擬態した猫たちがとても愛らしくユーモアたっぷりに描かれて、見ているだけで癒されます。

CAT ART美術館

人をネコに置き換えたパロディ画は、誰もが知る有名な絵ばかりで。オリジナルの絵を脳内展開しつつ、壁に掛けられたキャットアートを楽しむ、エッシャーのだまし絵的なぐるぐる感に酔えます。 

そうして作品を眺めながら、オリジナルってなんだろう?と考えたりしていました。前述の大塚国際美術館が好きでよく行くのですが、オリジナル絵画にはピンとこなかったのに、陶板画を「好きだなぁ」と思うことがあって、自分は絵の何を見てるんだろうと。

そういう時は大概、絵のタッチや構図、色使いなんかよりも、その絵が描かれた背景込みで心惹かれていることが多くて、「自分は絵を楽しみに来たのか、物語を楽しみに来たのか?」なんて考えるのですけども。いつか答えが出るんでしょうかね、どうなんでしょう。オリジナルの絵が日本に来る時は、また見比べて自分の感性に問いかけてみたいものだなぁと思っていたりします。

西武渋谷「CAT ART美術館」展にて、猫の愛らしさを再確認するゴールデンウィーク。 - 青猫文具箱

CAT ART美術館、絵ももちろんですが、その解説も面白くてじっくり見ながら巡っていたんです。絵は好みじゃなくとも、解説が面白いやつは解説だけ読んで、絵は視線を流す程度で(混んでいたし)。

それで、ふとミレーのオフィーリアのことを思い出して、自分は、絵を物語の挿絵のように眺めているだけじゃないの?と思ったんです。

絵自体の善し悪しではなくて、その絵にまつわる物語が好きなだけなのかもなと。描かれた植物のそれぞれの暗喩を知って、ミレーがラファエル前派の象徴的な画家であることを知って、そんな風に絵の背景、文脈を知ったから好きになったのかなと。

というか絵って、誰かの解釈なしには素晴らしいとは思えない気もするんです。きれい、かわいい、雰囲気がある程度の感想は持てるけれど、それは猫の愛嬌のある仕草を見て和むのと変わりなくて、それ以上の解釈には至れない気がする。

外的評価、誰かの解釈に依ってるんですよね。混雑していない美術館の企画展よりも、人でごった返した企画展の方が価値があると感じてしまうし、絵に詳しい人がこの展示よかったよと言われればその通りな気がしてしまう。なんて、この文章書きながら思ったんですが、自分って絵を記号消費しているんですかね、絵そのものを楽しんでない気がしてきた。自分の言葉で語るための美術的な素養ほしい。

 

でも、ここまで書いておいてなんですが、美術の素養って何なんですかね。絵にまつわる文脈を体系的に知る学問、なのかな。それとも「宝石を見る目を養うには本物をなるべくたくさん見る」的に、オリジナルと贋作を見分ける目を鍛える行為なのかしら。でもそれも先達の外的評価に依ることには変わりないし、主体的に「この絵がいい」と語るのってどうすればいいんだろう。

取り留めなくなってきたんでそろそろやめますが、最近は美術館に行くたび、自分は絵の何を好きだと思っているんだろう?と考えちゃうという、そういう話です。

 

関連記事