青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

「私は悲劇のヒロイン的な不幸を背負っているけれど、あの子よりは幸せよね」。

同級生の間で、黄色いナンバープレートの車を3連続で見つけると幸せが訪れるというジンクスが流行ったことがありました。瞬間風速的に。

そんなある日、スポーツクラブの地方遠征でバスに乗っていたら、3つどころか100近く見たんです、その黄色いナンバープレート。赤帽の、今思えば配車センターだったのかな、黄色いプレートが連なる光景に並んで座っていた友達ときゃー!と喜んだのを覚えてます。どれだけの幸せが訪れるんだろうと。

ただその日の遠征、負けた上に足を捻挫までしたんですけどね。不運なことに。「ジンクスはジンクスだね」「運が悪かったね」と周りに慰められ、でもその時不意に天啓っぽく思いついて「あんなにたくさんの赤帽を見なかったら、今日の試合惨敗で足骨折してたかも!むしろラッキー?」と言ったんです自分。ちょっと負け惜しみもあったかもしれない。そうしたら、その発言を聞いていたコーチが笑いながら「お前のそういうところすごいな」と言ったんです、「その発想の転換は羨ましい」て。

それをなぜか10年以上たった今も覚えているんです。コーチの名前も遠征先の学校も忘れたのに、その場面だけふとした瞬間に思い出します。

人生に大なり小なり不運はあるかもしれないけれど、それを不幸と決めるのはその人次第で、「むしろラッキー?」と考えられたなら自分の強みだよねと。要はピンチはチャンスだと思うのですが、この切り返しのおかげで救われたことって何度もありました。名も忘れたバスケのコーチありがとう。今どこにいるかもわからないけれど、バスケのシュートのコツよりもずっと役立ってます。

 

それなのにですよ、心と体の調子如何によっては「むしろラッキー?」と思えないこともあるんです。

世界で一番不幸な人間だと思い上がる(思い下がる?)ほどではないんですが、連続ドラマの悲劇のヒロインくらいには自分が不幸だ、て錯覚に陥る瞬間があります。何で自分はこんな不幸で、周りの人たちはのんきに幸せそうに笑ってるんだろう的な。これはまだましな方で、普通の人たちが簡単にできるようなことも出来ない自分ごめんなさい的な。自虐的になる。

それでいて、自分より不幸に見える人/不幸な部分を抱えて見える人をわざわざ探してきて「私は悲劇のヒロイン的な不幸を背負っているけれど、あの子よりは幸せよね」みたいな優越感ゲームを始めてしまう。こういう自意識に囚われてる感、ふとした瞬間気がついて「お前は誰と戦っているんだ」といたたまれなかったりするんですけれど、なぜか反省してもつい繰り返してしまう。

「むしろラッキー?」と発想の転換が出来るのと、悲劇のヒロイン気分に浸って殻に閉じこもったり誰かの不幸探し始めるの、どちらが健全かと言えば前者の方だと思うんですけれども、なかなかうまくコントロールって出来ないんですよね、未熟なことに。渦中にいると視界が利かなくなる。

最近は、「何で自分だけ」の片鱗が見えた時点で、「誰か甘えさせてくださーい!」と思い浮かんだ顔に連絡して甘えに行きます(飲みに行ったり。そして自分も相手からのヘルプ要請に快く応えたい)。そして一通り胸の中のモヤモヤを吐き出して冷静になってみると、「いやお前の悲劇は単発ドラマでも尺足りないだろ、連続ドラマとか図々しすぎだろ」と気がつくんですけれど、これが一人で切り替え出来るようでいたいなぁと。

食欲と睡眠欲が満たされていると上手く「むしろラッキー?」ルートに乗れる気がするので、食べずに働き通すとか睡眠時間を削る愚は犯さないようにしているのですが、でも気がつけば「私は悲劇のヒロイン的な不幸を背負っているけれど、あの子よりは幸せよね」の渦中にいることもあって、我が身ながらままならないと思う今日この頃です。つらたん。

 

関連記事