青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

コップの中のあらし程度の「好き」。

友人との約束までの時間、時間調整でふらり神保町を歩いていたら、古書フェアにたくさんの人たちが足を止めてました。大切に扱わないと破れてしまいそうな和綴じ本から、十把一絡げで紐で括りつけられた新書まで十人十色様々な本が積まれていて、それを選ぶ老若男女も楽しそうで。

自分もちょっと気になるタイトルがあって、「あ、ほしいな」と一瞬考え、でもこれから人に会うのに荷物増やすのもなぁと横切って、そのとき「本好きの人ならそんなこと構わずに買うよね」と思ったんです。自分は、手荷物が増える程度の面倒くささを引き受けられるほど、本好きじゃないんだなぁと。古書なら一期一会のことも多いのに。

そういえばその前に東京駅近くでふらりコクヨハクを覗いた時も、休日なのもあってものすごい人出で、自分と同じように文房具が好きな人がたくさんいて嬉しい楽しいと思う一方で、同行者と熱く語っている人を目にすると、自分程度の熱意で好きといっちゃえる自分図々しい、と一瞬思ったのでした。ミーハーに乗せられてるだけなのだろうなぁと。知りたいよりも消費したい感覚、ていうんでしょうか。

 

いや別に張り合うものじゃないんですけどこんなところ。好きの表明が資格制度だったことなんてないし、好きに重さも色もないんですけれども。

なんとなく張り合うように相手を見下すように自分の好きを表明したくなってみたり、下には下がいるように上には上がいることを思い知らされて足元が揺らいだ気持ちになったり、何で外側に目を向けちゃうんだろうね自分、と自嘲したくなるときがたまにあります。

ここで持ち出したのは趣味領域の話ですが、仕事領域ではもっとだと思う。大概の人はみんな、座っている椅子を見て評価しているだけなのに、自分が評価されているような錯覚に捉われて、評価されてる仕事を得意だとか好きだとか思い始めてしまう。要はいちいち人の目を気にし過ぎている。

願わくば、外から見た時に「あの人なんであんなことに本気になってるんだろうね」という、他の人にとってはどうでもいいコップの中のあらしに心乱されるような好きだったら良いのにと思っていて、後から振り返った時に「そうなっちゃってた」ことに気がついたらば幸せかもしんないと想像して、そうだ今はまだ夢の途中、というのが一番いいなぁと考えた、そんな話です。

今自分が好きなモノを、誰かに表明する機会がなくてもちゃんと好きでいられるだろうか、というのをたまに考えてしまう。 

 

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