途中まで読んで放置していた本の続きを読み始めました。もうだいぶ中身を忘れてたので、最初から新鮮な気持ちで読み返せて、なのにふいに既視感がこみ上げてきたりして楽しいです。「この事件の犯人を、私はなぜか知っている...!」的な。タイムループ感。
それで今は「文房具56話」と「玉子 ふわふわ」の2冊を読み返してます。
どっちもタイトルから想像つく感じの、テーマをしぼったエッセイです。楽しい。筑摩書房に対する敬意がいや増します。こんな素敵なエッセイ世に出してくれてありがとう...!て思う。最近たまらなくエッセイが好きで、しかもこの手の文章は電子活字で読んじゃうと陳腐化する気がする。気がするだけなんですが、紙の本として小話がまとまってる必要があると思っていて、そうじゃなかったら、こんなささやかな言葉のさざめきは簡単に散逸してしまいそう。そんなことになったら残念でならない。
本当は、ちょっと喫茶店に入って時間を作れば読み終えられる量なんですが、どちらの本も一つ一つのエピソードが素敵で、特別ではないけれど愛おしさがあって、読み終わるのがもったいなくてジリジリと読んでます。
それで、この間ふいに気がついたんですけれども「玉子 ふわふわ」の方は自分、黄色いブックカバーかけて読んでるんですよ。多分無意識にかけたんですが、この本に優しい玉子色のブックカバーをかけた自分グッジョブだなぁと。雰囲気に合ってる。
もう1つの「文房具56話」は、AUI-AO Designさんの活版印刷のブックカバーで、これは本からの連想みたいなのはないんですが、どこか朴訥とした職人気質な文章に合ってる気もして、やっぱりふふふっとなる。
ブックカバーはあまり買わないようにしてて(電子書籍派なので)、でもプレゼントに貰うことが多いです。今、視界に入る範囲で数えたら10くらいかな。中の本に合わせて選べるくらいはあります。
それで選択肢があるとつい考えてみちゃうんですが、紙の本とブックカバーのマリアージュっぽいのもあって良いよなーと。服と鞄、または靴くらいの距離感で考えてみたくなります。
ビジネス書、啓発書の類も読むのですけれど、これにいちいちブックカバーをかけると「よし自分はこのビジネスノウハウをものにしてやるぞ!」なんて鼻息荒い感じがして、最近は本屋さんでかけてくれたカバーそのままで読んじゃいます。特別さを出さない感じで。
使い道、というかどんな本の合わせたらしっくりくるのかわからないなーと思うブックカバーもあって、例えば単体ではとても可愛いディズニーのやつなんですけれども、
状態の良さから御察しの通りで、もったいないのもあってあまり使ってません。どの本を包めばいいのか...下手に恋愛ものとかこれで包んで読むと、過糖気味な感じがする。 いや食傷気味?むしろ料理エッセイとかにすればいいのかなー。
それと、以前ブログで紹介したこともある、
印傳のような紙のブックカバーは、見た目の和っぽさから畠中恵先生や高田郁先生の本にかけてたりしたんですが、あまりにも「狙い過ぎてるな」なんて思うようになり、最近はもっぱらミステリーにかけてます。
この幾何学模様がミステリーぽさあるかなーと。これは流石に通勤カバンに入れて使ったらすぐ汚れてしまいそうなので、家で読むか休日喫茶店で読むかの時しか持ち出さないのですけれど。
あと、いまだなつきさんがブログかツイッターで「本は風呂敷に包んで持ち歩きます、本が綺麗なまま保てますよ」とおっしゃってて、なにそれとても素敵なことだなぁと思ったんですが、風呂敷自体持ってないので残念。喫茶店で、隣に座った人が風呂敷包みを取りだして、しかもそこから本が出てきたらきっとときめく。
そんなマリアージュ的なことを考え出すと、下手にイラストや模様が入った派手なものよりも、オーソドックスに、何にでも合う無地の皮のブックカバーがやっぱり使い勝手いいよね、なんて考え、でも皮のブックカバーって新品同様に見えるとそれもなんとなく背伸びした感がある...ような気がします。気がするだけなんですが。
それで、皮のブックカバーに関しては他のやつと比べるとちょっと傷がついたくらいの方が読書家っぽくてかっこよくない?なんて雰囲気読書みたいなことをいいつつも、新しい本を読み始める時は、ブックカバーも新しい方がなんとなく気持ちがパリッとして嬉しいので、なかなか難しい問題だなぁとか思うわけです。
余談なんですがこの革のブックカバー、しおりが本の背じゃなくてちょっとずれたところについていて、それがたまらなく使い勝手的に気に入ってます。強度的コスト的になかなかそういうのがないので、見るたびふふふ、と嬉しくなる。