青猫文具箱

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『嫌われる勇気』で、何が変わっただろう。

自分の記憶では去年、自己啓発書の『嫌われる勇気』が売れて、その後のアドラー心理学本ブームを巻き起こしたことになってます。人生変わった、泣いた、のフレーズも何回も見た。

でも結局はみんな、今も他者からの承認や所属に対する欲求に悩まされていて、あれだけ広まった(ように見えた)アドラー心理学も何も変えられなかったんだね、と身勝手な失望を感じたりもするんです。 

自分だって青年と哲人の対話の物語に感動して、他者の承認に依存しない生き方に納得したはずなのに。でも実際は今も他者の承認から逃れられない。

嫌われる勇気

嫌われる勇気

 

一年前に書いた記事で、

一年前に読んだ本のこと、どこまで覚えてますか?

今年話題になった本はだいたい読みました。おすすめしてくれた人がおすすめしてくれた通りに「感動して」「啓発を受けて」、そして「忘れた」。

当たり前だと思います。人の読書をなぞって、それで何かを身につけた気になっても、「自分ごと」でなかったら、覚えている緊急性なんてあるわけがないんです。

今も同じことを思う瞬間があって。読んだ直後、あれほど薫陶を受けた(気がする)本も、寝て起きれば熱も冷めて、時間とともに日常生活に負けて揺り戻る気がする。お決まりのフレーズ的な「人生を変える一冊」なんて本当にあるの、と思ってしまってしまいます。

 

「映画のようなゲーム」ってあるじゃないですか。一方で、映画のような筋書きはなくても、世界観や物語性に引き込まれるゲームもありますよね。

電撃 - 世界ではストーリーに代わる概念“ナラティブ”が語られている――『DQ』はナラティブで、『FF』はナラティブではない【CEDEC 2013】

“ストーリー”と“ナラティブ”は、日本語ではどちらも“物語”と翻訳されてしまうため、その違いが見えにくいところがある。(略)

まずストーリーとは、“始まりがあって終わりがあり、誰がなぞっても同じ経路をたどるものである”という。それに対して、ナラティブには“時系列が設定されておらず、これはプレイヤー自身の経験や出来事によって語られるもの”だという。またそこには、受け手であるプレイヤーにとっての意外性や偶発性が必要だ。

例えばDQ(ドラゴンクエスト)では、世界設定やイベントは用意されますが、主人公の感情や旅の目的は明示されず、それゆえプレイヤー自身の想像と体験で物語は語られます。これが"ナラティブ"*1

逆にFF(ファイナルファンタジー)では、世界設定やイベントのみならず、主人公の感情や旅の目的、他のキャラクターとの関係性までもシナリオ化され、プレイヤーは観客として物語を読みます。これが"ストーリー"。

 

時間を経ても、記憶に残ってるゲームってどちらでしょう。

正直、自分にとっての思い入れのあるゲームといえばDQの方で。それは、ナラティブという舞台と設定だけが用意された画面向こうの物語を、「自分ごと」で楽しんだからだと思うんです。町の人からの情報で見つけた辺地の洞窟、倒せないボスの攻略法に四苦八苦したあの頃を懐かしく振り返れる。

ストーリーとナラティブ。一年前に読んだ本を、役立てられないばかりか思い出せないの、他人にお膳立てされたストーリーをなぞって終わったからなんじゃないの、て思って。「自分ごと」になってないからだと考えて。

読書が好きな理由、突き詰めると自分は「自分の人生では時間的に間に合わないことを疑似経験できるから」になると思うんですけれど、それがなんだかままならないなと。

読書記録をつけたり日常で試してみたりと試行錯誤して、それだって大概上手くいかない。稀にほんの一握りのフレーズだけが「自分ごと」になって、あとは大体忘却の彼方にいってしまう。

読書のアウトプットとしてブログに書評を書いて見ましょう、なんて言説も見かけますが、あれはアウトプットを生むためのインプットというか、ブログネタのために本読んでるみたいになる錯覚に陥るのです。本に対して誠実なんだろうか、とたまに思う。

いやでも普段は何も考えず、時間ができたらただ本を読みたくなるので、そこに理由なんて必要ないのかもしれないですけれども。

『嫌われる勇気』で何が変わったんですかね、それとも自分の観測範囲がそうであるだけで、実はとても大きく変わった人もいるのかな。いてほしいな。

 

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*1:物語学や医療の現場で使われるナラティブとはやや意味合いが異なります。