青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

本を知る、本で知る、本に知る。

小説のあるシーンで閃いたことがあって、全く関係ない仕事の場面でそれを応用してみたら上手くはまったのです。なるほどこれがセレンディピティか!と納得した次第。

乱読のセレンディピティ (扶桑社BOOKS)

乱読のセレンディピティ (扶桑社BOOKS)

 

自分の場合、読書って「本に書かれていることそれ自体を目的に読むとき」か「その本を呼び水にして思考の海をたゆたうとき」におおよそ分かれます。

前者はそのまま、小説に感動したり、専門書で知識を蓄えたり。後者は本をきっかけに思考に浸る行為で、例えば宇宙を舞台にしたSF戦記、税に苦しむ人々の場面で土地税や人頭税について思考するとかです。セレンディピティに繋がるのは大体後者、かなぁ。

 

読書の醍醐味的にはどちらでも楽しいのですよ。書かれていることそれ自体について「本を知る」のも良いし、本を手段に何かについて「本で知る」のも良い。「知る」よりは「識る」の字を当てる方が適切かな。

もちろん2つの意味の読書が重なれば僥倖です。『花咲舞が黙っていない』の原作『不祥事』『銀行総務特命』を読んで、勧善懲悪な物語にスカッとしつつ現実の社内政治に思いを馳せるとか、1冊で2倍おいしい気がしません?

「本を知る」と「本で知る」、どちらも楽しいんですが、できる限り物語の本筋に没頭したい「本を知る」とは逆に、「本で知る」なら本の内容とはかけ離れたところに思考が飛べばいいな、とも思います。4コマ漫画のOL生活に笑いながらアパレルの純利益率に思考を飛ばすとかがいい。

画家のサルバドール・ダリは、指にスプーンを挟んだまま居眠りをして、スプーンが落ちる音で目を醒まし、その微睡から作品のインスピレーションを得たと言われます。「本で知る」はこの微睡に似通った方法なんじゃないかなー。

 

内容について「本を知る」と、呼び水としての「本で知る」。これに加えて時々「本に知る」読書になっちゃうときもあるんですね。

「本に知る」というのは、その本の売り方魅せ方とか、時代やブームにおけるその本の位置付けとか、本のギミック(仕掛け)を考えるような読書です。例えば、アドラー心理学本ブームが続いた理由を知るために『嫌われる勇気』を読む、みたいな行為。メタ的読書、になるのかなー。

ただこのメタ的な「本に知る」て、上から目線の優越感は楽しめるかもしれないけれど、突き詰めると不幸な気もするのです。メタ的に事象全体を観測するためには内側ではなく外側から見なくてはいけないので、当事者になれない。阿波踊りの一節で「踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損損」という歌詞がありますが、外から見て楽しんで終わらせるのって、損した気がするんですよねー。

それも一つの楽しみ方とはわかるけど、できるなら解説者席より、観客席か舞台に上がりたいなぁとか。同じ夏は二度と来ないわけで、人生一回生のときぐらい傍観者より当事者を楽しみたいなーとかそんな感傷です。

 

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