青猫文具箱

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朝井リョウ「何者」感想文。

毒にも薬にもしないSNS

朝井リョウ先生の「何者」読みましたー。SNSで自意識を保ち、就活の荒波を乗り越えようとする5人それぞれの道、的な。 

何者

何者

 

揺り籠の中でポジショニングしてれば良かったのに、ある日揺り籠からポンっと放り出されて、自分が何者であるか迷ってしまうのが就活のお約束。

自分はこのカーストに属しています!と叫ぶのも良し、カースト外側から傍観者気取るのも良し、前だけ見てガムシャラに走るも良し。鴨が葱背負って向こうから来る確率に賭けてられないので、とりあえず走り出す人が多いのかな。過去の自分含め。

 
「何者」を読みながら、自分が今就活生だったらSNSをどう使うだろう?と考えてました。…それなりに無難にSNSを使うだろうなーと想像つきます。転職の時は実際、そうしました。実名で検索された時、人事から見て「まぁ問題ない」程度にSNSは整えておいた。毒にも薬にもならない程度の繕い方です。大して力を入れなかったのは、最初の就活の時にSNSが大して武器にならなかった実感があるから。そういう時代だったのです。

翻って考えれば、今は、SNSが武器になる時代なんですねー。

 

SNSをアクセサリのように装備する。

もしもこの世界をRPGに例えるなら、人はそれぞれ冒険の目的を持っていて、自分を鍛えて武器を揃えて仲間を見つけて、旅を進めて行くのだと思うのですけれど。

そんな冒険の旅で、自分にとってのSNSは「銅の腕輪」や「はやてのリング」のようなアクセサリで、あれば嬉しいけど、パラメーター自体は大きく変えない存在なのですね。

武器は別にあるのです。コミュ力とか学歴とかバイト歴とか。社会から既に価値や意味が認められていて、それなりに攻撃力がある「鋼の剣」的扱いやすい武器ですねー。

でも一方で、自分にとってアクセサリであるSNSを、武器として扱う人がいるのも想像つきます。ツイッターで有名になった人たちは数限りないし、フェイスブックで宣伝して売り上げを伸ばす会社だってある。アカウントを失うことが武器を失うことになる、まさに生命線としてSNSを扱う人たちです。

 

SNSでパラメーターは動かない。

「社会から安配と認められている(いた)」旧時代の武器の類、つまり学歴や職歴とかがそれなりにガタがきてみえて、だからSNSを新時代の武器として重用する人たちがいるのだと思います。ほらだって物理攻撃がほとんど効かない敵に物理攻撃で当たるのは愚かじゃないですか。

それでも自分は、SNSを武器にしようと思えないんですね。アクセサリでいい。人生に潤いを与えてくれて、付与効果があれば嬉しいけれど、生命線である必要はない。言い換えるなら「価値はあるけれど意味はない」的な存在がいい。

その理由は、自分にとってのSNSが「儚い」ものだから。ボタンひとつでアカウントは消えてしまうし、対面ほど情報の伝導率があると信じられないし、何よりそれが事実なのか真実なのかわからないし。すごく、儚いものに見える。

 

異論はあると思います。単に自分がSNSを、武器にできないだけです。

人生という冒険の旅で、武器ほどお金も時間も投資できないし、ましてそれを冒険の目的にはできない。SNSでフォロワー数を増やすために、自分を切り売りして曝け出す気分にはならないのです。

その分、パラメーター変動の大きい(と今のところ思っている)武器を鍛えることに時間を費やしたい。つまり、仕事とか日常の経験とかに注力したい、かなー。

 

自分を預けられる武器、の話。

「何者」を読んで、最初、登場人物たちがSNSに囚われているようで、常に誰かの視線に晒されている状態を「当たり前」と思って受け入れているようで違和感持ってました。なんでボタンひとつで消えてしまうアカウントに、自分を預けちゃうんだろうー?と。

だって私は怖い。人生の潤いに、アクセサリという「あそび」として装備するならいいけれど、生命線たる武器にはしたくない。「遠水は近火を救わず」のとおりで、遠くに水場があったって、目の前の火事を消す役には立たなくないですか。

 

そんな「何者」を読んでの違和感について「え、これが『最近の若者は』感てやつですか、そうですか」て戸惑ったのですけれど。あれ、でもこれって単に、追い詰められないようにコミュニティは複数持て、とかのありふれた結論なのかもしれない。

もちろん二兎を追うもの一兎も得ず、なので、軸足は必要なんだと思うのですけれど。つまり、何を武器とするか、アクセサリとするか的な。そして自分はSNSをアクセサリ的に装備していたいな、と思ったのです。「何者」面白かったー。

 

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