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青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

悪意も自覚的に放ちたいよね、という話。

オレンジ文庫の「お坊さんとお茶を」(作者:新堂樹)を読みましての続き。

本の何に対してお金を払っているか。

食卓に上がった食事がどうやってできたか、考えた上で感謝して食事を口にしましょう、という、禅に限らず一般道徳的にも、日本全国のご飯の作り手に対して皆が抱かねばならない有難いお言葉です。食事は魔法のようにぽんっとどこからか出てくるものじゃなくて、その工程工程を誰かが担って食卓に上がってる、という。

「五観の偈」の第一、”功の多少を計り彼の来所を量る”についてまだ考えています。これってきっと本のことだけじゃないよなと。

 

卑近な例でいえば、先月振り込まれた給料。これは自分の何の実績や貢献に対して支払われたものか、とか。あとは冬の間にたるんだ気がする二の腕。これは自分のどういう怠慢がもたらしたものか、とか(ひぃ!!)

結果を因数分解して、それぞれの要素について思考することを意識できれば、今まで無自覚でいたことに自覚的になれるよね、と。

 

そして、善意とか悪意も、結果を因数分解して要素を見つめ直すことってとても有意なんじゃないかなーということです。

例えばです。ある出張帰り、ずっと歩きっぱなしで疲れたので電車に乗りました。ラッキーなことに、席がすぐ空いて座れた。そこにやってくる杖をついたお年寄り。私は「どうぞー」と席を譲って、立ち上がります。いわゆる親切といわれる行為ですね。

はてさてこの親切を行った自分の内心はどうであったか。

まずはもちろん純粋な善意。でも根っからの善人ではないので「疲れているときでも席を譲れる自分」みたいな承認欲求的な何かもあるでしょう。あとは「あの人お年寄りに席譲らないなんて」と思われたくない世間体もないとはいえない。

そんな風に結果を因数分解するんです。普段は複雑すぎて思考停止していること、無自覚なままに行っていることを、自覚してみる。そうすれば、知っていると思っていたことの別の姿が見えるんじゃないかと。

 

善意に限らず悪意も、分解して複雑さを紐解いて、自覚すべきだなぁと思う。普段は本能の赴くままにやっていることを、理性の領域に引っ張り戻したならば、案外するりと解決することもある気がする。

例えば会議で、相手からの斬新な提案を批判しようと思った。そうしたときの私の内心構成比はどうなっているか。

まずは単純に、採算が合うのか微妙だな、という判断、批判。それから、斬新さに対する保守心とか。あとは、自分にはできないことを相手が提案したことに対する羨望。

批判が大半を占めるならそのまま、声に出せばいい。でも、保守心とか羨望とかそういうものが大半を占めるなら、そっと口をつぐんだ方がいい。

 

無知も罪である、てつまり、無自覚、無意識、わからないからこそ歯止めがきかないのであって、自覚的、意識的であれば、最後の一線を踏み越えないための理性が働くんですよ、多分。自覚すればきっと、天使のような無垢さで残酷に人を傷つけることってできないと思う。

だから悪意は自覚的に放ちたいよね、と。そうやって、徹底的に修復不可能なほど痛めつけるなんてことをする前に、気づいてちゃんと、踏みとどまれればいい。

 

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