青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

本の何に対してお金を払っているか。

休日の喫茶店で、オレンジ文庫の「お坊さんとお茶を」(作者:新堂樹)をまったり読んでました。

そしたら、食事の前に唱えられる偈文「五観の偈」に触れる箇所が出てきたんですよー。その意味を考えるうちに本文の内容とは関係ないことに考えが及んで、「自分は本の何に対してお金を払っているんだろう?」と思った話です。

お坊さんとお茶をでは、

食前の唱えごとの中に「五観の偈」というものがあります。その第一にいわく”功の多少を計り彼の来所を量る”......つまり、これからいただく食事が、どれほど多くの手数や、人の苦労によって出来上がったものかをよく考え、感謝していただくように、ということです。

食卓に上がった食事がどうやってできたか、考えた上で感謝して食事を口にしましょう、という、禅に限らず一般道徳的にも、日本全国のご飯の作り手に対して皆が抱かねばならない有難いお言葉です。食事は魔法のようにぽんっとどこからか出てくるものじゃなくて、その工程工程を誰かが担って食卓に上がってる、という。

 

そこから、なんとなく本の裏表紙の「定価 本体550円+税」という文字が目に入ってですね、「自分は本の何に対してお金を払っているんだろう?」と考えるに至ったのです。

この550円を、自分は何に対してお金を支払った気でいるか。

ぱっと思いつくのは作者に対してですよね、本の中身を書いた。中身がなければ本が成立しないわけで、やはりそれが一番大きいと思う。

次に思いつくのは、表紙や挿絵を描いたイラストレーターさんに対してです。だってイラストがないと、数ある書籍の中でそれを読もうと思うきっかけが得られなくて、買わなかったんだと思う。

それ以外で更に思いつくのは、一つ前の記事でもちょこっと書いた、

電子書籍派なりに、最近本屋が楽しい話。

最近電子書籍ばかり買ってたせいで忘れてたんですが、私、昔から装丁作家さんによる本のカバーデザインとか、職人さんによる手作り本とかの、中身でない部分、要は外身も好きなんです。

本の装丁って、電子書籍にはない魅力の一つですよね。触り心地とか、見た目の風合いとか、光の反射具合とか、電子化できない微妙なニュアンス群。

本の装丁、それに携わった人たちのことも、自分は550円を支払う時にイメージできている気がする。本を本として手元に置いておきたいと思うのは、電子書籍じゃダメだと思うのは、ここら辺が大きいよね、と。

更に更に、たくさんある似たような本の中で、この本を棚に押し込めるでなく平積みさせて(新刊だからなんですが)、ちょっと気の利いたPOPを添えて自分とこの本の縁をつないでくれた本屋さんのことも想像できてます、多分。

更に更に更に、「働きマン」の千葉くんが好きな私は、編集者や、営業マンと言われる人たちがいることも、多分想像できている。

安野モヨコ先生の「働きマン」を今、読み返す。

あと、「報われマン」の千葉君が凄く好きなんですよ。

松方の同期で営業。仕事は仕事と割り切れつつも、琴線に触れたら情熱で仕事できるという。やりたいことが出来るスキルと、情熱を揺り動かされる心のスイッチが錆びずにある感じが羨ましい、というよりそうありたい。なので、仕事で立ち止まった時に自分が追っかけてる方向を思い出すためにたまに読むのは「働きマン」の中でも2巻です。

 

自分が想像できる手数はここら辺が限界です。

きっと、物書きや出版社の人、本屋と言われる人なら自分の身の回りのことなので、もっと丁寧かつ網羅的に分解ができるんだろうけれど、その外側で、「本を買う人」であるだけの自分には考えが至らない領域です。そしてもしかしたら、本が読者の手に届けばそれでよくて、自分の名前や苦労、そういうものが表面化することがなくてもいいと考える人もいるかもしれなくて。 んー言葉にするの難しいな。

でもそんな風に、店頭に並んだ本という「結果」を逆算して「経過」に思いをはせることができたなら、それってちょっと幸せなことのように思いません?

世界が広がるという単純なことだけじゃなくて、作者に加えて、思いがけずたくさんの人の思いが乗っかった「何か」を本という形で手に取っているんだなぁという気がして。すごくリレー的ですよね。しかもその本がそれを求める誰かの手に届くかどうかはとても低い確率で、ありふれた奇跡的な言葉が思い浮かぶ。

 

目に見えるものそのもの、つまり結果だけじゃなく、そこまでの経過にも思い馳せられる人でありたいなぁというふわっとした感想でこの記事終わり。お粗末ですー。