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青猫文具箱

本と文房具を愛でる日々。

継続という稀有な才能。

なんとなく目に入って買って読み始めてみたら、琴線に触れたので書きます。劇作家・平田オリザが放つ文科系青春ストーリー。

幕が上がる (講談社文庫)

幕が上がる (講談社文庫)

 

富士ケ丘高校演劇部は、毎年地区大会止まり。そんな弱小演劇部に、かつて学生演劇の女王だった新任の先生がやってきた。「行こうよ、全国!」。高い目標をもった部員たちは、部長に就任したさおりのもと、演劇ひとすじの日々を過ごす。芝居に対する葛藤、将来への不安や悩みを抱えながらも、熱い友情で結ばれた彼女たちの最終幕が、しずかに上がる――。

学生時代、演劇やってました。兼部の時期もあったのでどっぷり浸かってたわけではないけれど、小学校の演劇クラブからを含めると結構長いかな。

きっかけはいろいろあるんですが、1番は親に連れられた劇団四季CATSで、珍しいかもしれないのは役者じゃなくて照明がやりたかったことです。理由はわからないけどなんか憧れた。でも当然、小中学にまともな照明機器が揃ってるわけがなく、脇役と美術班で過ごしました。

高校から機材に恵まれ、念願叶って照明班。といっても立ち上げたばかりの部で人も少ないので数合わせの脇役もやってましたけどね。大学時代はもっぱら照明班で、小劇団の手伝いもいくつかやらせていただいたり。

回路の計算したり照明プラン立てたりのプランニングも好きでしたが、当日の機器操作、オペレーターの方が好きで得意でした。こだわりが強い方ではなく、演出の指示に素直に従う扱いやすい照明班だったと思います。

専門の学校に通ったわけではないし、自分の才能の限界...というよりずっとやっていける熱量的な自信がなくて、卒業して演劇自体辞めてしまいましたが、今でも演劇やミュージカルを観に行くと、まず天井を見上げて灯体(照明機材1つ1つのこと)の位置を確認するくらいには好きです。

 

照明班の時、オペ室(照明や音響の機器操作室)からいろんな役者を見ていました。一目で華を感じる役者も、トリックスター的な癖のある役者も、小器用でプロになってもうまく立ち回れそうな役者もいました。それにもちろん、こんなんで日常生活嘘つけるんだろうか、というくらい台詞回しが棒読みな役者も。

外の劇団に照明でお手伝いに行った時、その劇団で毎回主演やる人がいたんですが、その人は自分の見た役者の中でも一際上手かったんです。上手かったというと違うかな、パッと目を引く華があった。あと抜群に声が良かった。声を張り上げるとそれだけで場面が締まる気がした。

主宰が脚本演出してたんですが、主演の人のために脚本書いてるんだな、というのをいつも感じてました。いつか、椎名桔平みたいに名を上げてテレビドラマに出演なんかしちゃうんだろうなと、照明合わせでその人用のスポットライトの位置調整しながら思ってました。客演(他の劇団のお芝居に参加すること)も引っ張りだこでしたし。

 

でもその人、私が大学卒業して数年で演劇やめて、公務員になってました。劇団自体が人が足りなくて解散しちゃったんですね。大学時代に仲間と立ち上げた劇団って、就職で足を洗う人が出始めるとやっぱり難しい。その人の事をどっかの劇団入り直すのかな、とサークル仲間と飲みに行った時話題出したら、普通に結婚して子供ができたらしいです、「だからもう演劇からはすっぱり足を洗ったんじゃない?」と。

ちなみにそのサークル仲間との飲み自体も、演劇でやってくと大学卒業後もバイトしながらいろんな劇団渡り歩いてた人の就職祝いで、変にしんみりしたのを覚えてます。そうです、今でも下北沢界隈で小劇団の芝居見るのが好きですが、ついでに帝国劇場なんかにも足を伸ばして芝居見るのも好きですが、私が照明班やった舞台の役者、ついぞ名前を見かけないな、とか(暗くなるのでここで思考停止)。

 

「幕が上がる」の小説を読み終えて、綺麗な大団円にそれなりに感動はしたんですが、一方で穿った見方もしてしまって「平田オリザの小説ならそりゃそうだ」て思ってしまったんです。成功者の小説のようでちょっと眩しかった。

登場人物たちは、演劇が好きで、あるきっかけでもっと演劇が好きになってくんです。そして、形は違えど、高校卒業後も演劇の道を進むんですみんな。ひとつの達成感を得て、明るい未来にそれぞれ進む。青春です。

実際そんなうまくいくわけないのにね。だから怖くて悲しかった。あぁ、多分この小説の主人公たちはみんな、キラキラと輝いて次の舞台を目指して、でもプロとして残るのは一握りか、何も残らないかなんだろうなと。

 

なんだろう。自分のような、特に才能とか情熱とかそういうものが欠けてた人は当然に、才能があると思える人ですらプロへの道に続いていなかった、というのは自分の中でのちょっとした絶望で、プロへの道って「その分野でのなんらか特化した才能」の他に「継続という才能」が必要だ、というのがその頃から抱いてる持論です。

要はプロというのは、「選ばれる」というより「残る」ものなのじゃないかしらと。割と世の中には天才と呼ばれる人は溢れていて、でもプロとして残るのはほんの一握り、その分野での才能と「継続という稀有な才能」を持ち合わせる人、みたいな。それは運に依るのかもしれないし、絶対諦めないという執着に依るのかもしれない。老害とかなんとか陰口叩かれる人も、逆から言えばそれだけの長さ続けられてきた人で、続けられない私はただひたすら尊敬の念を抱くだけです。

 

そんなことを「幕が上がる」読んで思っていたら、長田克樹 (id:nagatakatsuki)さんが、プロについての記事を書かれていて、

歌手になりたいが - イラストレーションアドバイス

プロっていうのは、「既に持っている能力から選べる選択肢」だと思うんですね。

僕は小さい頃から描いてたし、今も続いてるから絵を仕事にすることを選んだわけです。

衝動とかじゃなくて、選択肢があったからやったんですよね。イラストの仕事が出来る能力があるって思ってたから。

「選択肢があること」かぁ、とストンと腑に落ちました。自分なりの言葉に言い換えるなら「継続した結果、選択肢として残ってること」になるかな。

 

…ここまでネガティブな感じで書いといてなんですが、言いたいことは「なんらかの分野でプロになるのは難しいよ!」ではなくて、「今続いている何かは、これからも続ければプロになり得る可能性が選択肢として残ってるものだ」ということです。だってそうでないと、続いてはいかないわけで。それはスポーツかもしれないし読書かもしれないし芸術かもしれない。ブログかもしれない(一週間ブログの更新してなかった人の台詞じゃありませんねすみません!)

そんなわけで、続いていた何かの可能性を辞めるときは、自分には継続という稀有な才能が本当にないのか、今はちょっとだけ気の迷いで少しだけお休みすれば継続できるのかなんてことを自分の胸に聞いてみるとよかです。

 

続きはこちら:

「才能」はあきらめた者の言い訳になり得る。

 

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